こんにちは。
鹿嶋です。
食欲の秋、スポーツの秋、収穫の秋ですね。
色々と欲求が湧いてくる季節です。
せっかくのチャンスなので、積極的に身を
乗り出して色んな情感を楽しみたいものです。
ふと、
もし食べ物を創造した人がいるとしたら
運動会などの催し事を企画した人がいるなら
自然の恵みのサイクルを生み出す者がいるなら
そんなことを想うと、
彼らの喜びは何なのか?
頭をサッとよぎっていくのを
敢えて捉えて、考察してみたいと思います。
前回のブログでは、与える喜びや意味に
ついて考察を行いましたが、
相手=自分(だから相手に与える)
という枠を超えた感動を味わいたい
というわがままな欲求を持って
しまうのが人間というものです。
では、そんな与える者
(場合によっては神なる存在)
を主として、彼らが深く感動する
ために必要なものは何なのでしょうか?
それは、与えられたものを感受する力
(想像する力、感動する力)
に他ならないのだと考えます。
考えてみれば私たち人間のできること
というのは、大概何かの枠組みを作ること
くらいで、その枠組みの中で色んな
人が日々快適に過ごしています。
テーマパークという箱であったり、
会社という組織であったり、
皆が暮らす街であったり。
しかしその枠組みも、
その中で躍動する私たちの
・心が動かなければ
・情が感化されなければ
全くもって意味をなさないのです。
例えばほんの数十年前に
活気で溢れていた田舎町。
辺り一面、老若男女たくさんの
人々が行き交い、子供の笑い声も絶えず
近所のおじさんおばさんが我が子のように
可愛がり世話をしてくれる。
そんな輝かしい光景が思い出される。
ただ今はどうか。
限りなくあった商店街のお店も現在は
ほぼ全て閉店し閑散とした風景…
人が歩いているほうが珍しい状態に。。
人がそこに存在しない箱というだけで
それがどれだけ寂しいかが伝わってきますね。
そう考えるとやっぱりどんなに
箱(枠組み)がしっかりしていても、
そこで輝く”人”が常に主役なのです。
・お金や力を持った人
・仕組み、箱を作る側が
唯一持ち合わせていないもの…
もしくは箱を作る1番の理由が
人に”感動してもらう”ことなのですね。
どうやらこればかりは他者の
可能性に委ねるしかないようです。
そして、創った枠組みの中で
・こんなことが起こるのか
・こんなに感動してくれたのか
・こんなドラマが生まれるのか
と、創造主ですら思いもしない感動を
私たちが純粋に”楽しむ”ことによって
与えることができるのです。
そうしたら創った人は
・今度はもっとこうすれば…
・もっと味わってくれるには…
と更なる工夫を凝らすことでしょう。
こんなふうに授受の関係による
相互作用=好循環が起こるのが本来は
当たり前で、そうなっていないとすれば
何かがそれを堰き止めているという
ことなのです。
この世に心理的に”1人”の状態で
生まれ落ち、母なる存在から始まる
人間関係を構築し、「自分」という個を
完成させる。
その上で”自分”を超えて
ある意味他者に可能性を委ねて
更に大きな幸せを味わう”至上の喜び”が
質の高い領域で存在するようです。
そしてそんな創造者であっても、
与えられた環境/資源を用いてるに過ぎず
更に高次元の枠組みの中にいる”1人”で
であることを自覚し、純粋に”楽しむ”のです。
そう考えると、
世の中は好循環の渦でできており、
”楽しむ”ことが何よりのエネルギー(ベース)
であることが分かってきます。
楽しむことで飛躍する世界…
そこには限界がなく、可能性で
溢れている開けた世界です。
社会情勢や家庭環境、個人の課題達成レベル
によっては可能性が狭められている
(制限されている)ことも
大いにあると思います。
しかし、この世界の仕組み的には、
または本来の目的としては、
決して人を縛ったり可能性を奪ったり
するものではなく、相乗効果で
どんどん広がりを見せる世界なのです。
そして私たちを導くあらゆるものたちは
私たちが物心共に真から解放される瞬間を
今か今かと待ちわびているのかもしれません。
そんな解放された世界で
制限なく心が動く、情が通う尊さを
私たちはこれからどれほど味わうことが
できるのでしょうか。
生きた生身の体を通して
最大限までそれを感じれた時
そこに強い”生”を見出せそうです。
それは”自分”という枠組みを超えて
他と一体になろうとするからこそ
自分という輝きが増すからです。
創造された枠組みの中で輝く人も、
中にいる人を輝かせるために創造する人も。
あなたからのご予約、
お待ちしています。