神の憂い

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

突然ですが、日本のアニメ「サザエさん」を
観ると祖父母、父母、子の3世代が仲睦まじく
暮らす様が描かれていて、何だか安心してしまう
感覚を味わえます。

 

 

 

昨今の日本では核家族化が進んでいて
そういった光景はむしろ珍しくなって
いますね。

 

 

 

子供の面倒を父、母が見るのは当然です。
では祖父母の役割はどうでしょうか。

 

 

 

 

父母が忙しい時に変わりに
面倒を見る程度…

 

 

 

に一見見えますが、実際は
それだけではなさそうです。

 

 

 

一般に、子供にとって
父母は面倒を見てくれる
重要で頼りになる存在です。

 

 

 

でも、父母は子育ての他にも
社会での役割を果たす大きな
責務を負っています。

 

 

 

また、子育ても学びながら実践
しているため、どんなに頼もしい親でも
実際のところはいっぱいいっぱい
だったりします。

 

 

 

 

対して祖父母はどうでしょう。

 

 

 

仕事の役割もある程度終え、
子育てもすでに経験済み。

 

 

 

様々な経験をもとに
アドバイスができる
いわば神の位置にいると
言われたりしますね。

 

 

 

確かにそう考えると、
実際に手を出すことがなくとも
そこにいてくれるだけで安心できる
何とも言い難い存在なのかもしれません。

 

 

 

 

今日はそんな彼らの心境について
の考察をしていきたいと思います。

 

 

 

前回のブログで人は
知ること=安心を手に入れる
ということを人生を通して
実践することを記しました。

 

 

 

限界を突破する意味がそこにあり、
生涯を通じてその知的好奇心を満たし
続けるのが私たち人間というものでしたね。

 

 

 

人間の三大欲求である
食べること、寝ること、人と繋がること
に匹敵するか、更に大きな枠組みの本能として、
知ることで安心する=心や思考の幅を広げる。

単純に言えば生涯成長し続けるわけですね。

 

 

 

時に困難や苦痛を伴ってでも私たちは
それを成そうとします。
私たちが知的生命体であるゆえんとも
言えそうです。

 

 

 

 

でも、子育てや仕事などの実務(責任)を
直接持った父母と、一旦はそれを終えた
祖父母だと、心境地は大分異なりそうです。

 

 

 

では、実際にはどんな違いがあるのでしょう?

 

 

 

それは、
実態(ファンタジー)を持たない
という点です。

 

 

 

もしかすると薄いという表現の
ほうがしっくりくるかもしれません。

 

 

 

私たちは成長するにつれて子育てや仕事などの
役割・責務を大きくしていきますが、
別の角度から見ると、その役割によって
自分が支えられているとも取れます。

 

 

 

こんな重荷に支えられるなんて…
なんて声が聞こえそうですが、
でも実際そうでしょう。

 

 

 

事実、自分の責務が重くなればなるほど
孤独に耐えられるようになります。
(孤独に耐えなければなりません)

 

 

 

正解のないことに対して自分で判断・決断し、
それに責任を持つわけですから
必然的に孤独にならざるを得ません。

 

 

 

 

だからこそ、自立した者同士、共感
し得る仲間との絆が強まったりもします。

 

 

 

自他の区分けがちゃんとある独立した
存在同士の繋がりですね。

 

 

 

では、その責務・役割という支えを
失ったらどうなるのかという問いです。

 

 

 

それは
相手(他者)を通して自分を感じる
ことになります。

 

 

 

よく
相手の喜びが自分のことのように嬉しい
と耳にすることがありますが、
その大抵は相手との絆をもとに
「きっとこんな気持ちだろう」という
自身の中の想像、ファンタジーの感慨
にひたっています。

 

 

 

ですが、どちらかというとそれとは異なり
他者の体験がそのまま自分の体験のよう
になるのです。

 

 

 

敢えて分かりやすく説明するなら、
自分とピッタリ同じ境遇の人ばかりに
囲まれるといった感じです。

 

 

 

 

自分と相手との境界が薄れ、
対象の相手は自分を映す鏡のような存在
になっていきます。

 

 

 

潜在意識のレベルで言えば

物質的に繋がるレベル
潜在意識で繋がるレベル(ラポールを築く)
自分も相手もないレベル

の③の階層にあたります。

 

 

 

いわば実態を持たないレベルです。

 

 

 

そして実態を持たない人は
何も持てていないのですから、
本当は「何もない」ことを知っている
人でもあります。

 

 

 

何だか禅問答のようになってきましたね(笑)

 

 

 

考えてみると私たちの思い描く
神様は皆「実態」がありません。

 

 

 

 

だからよく私たち人間は神様の似すがたを
していて、「私たち人間を通して一緒に喜ん
だり
悲しんだりしているんだよ」なんて話を
聞いたりします。

 

 

 

そしてそこから
相手を通してしか自分を感じれない神様の憂い
をも想像することができます。

 

 

 

役割を終えた祖父母もきっと
そんな感じなのでしょう。

 

 

 

若い時みたいな無理をして
頑張る活力はない。。

 

 

 

夢を見て理想を追いかけ、
それを現実に変えていくファンタジーを
もう持ち合わせていない、
というよりその幕を閉じたので、
後は他者のそれを一緒に感じているのでしょう。

 

 

 

そう考えると、
現役であるというのは大変で
あったとしてもとても幸せなこと
なのですね。

 

 

 

生涯現役でい続けたいと頑張る人の
気持ちも分かってきそうです。

 

 

 

何もない

 

 

 

それはそれほど切ないことであり、
恐ろしいことに感じられます。

 

 

 

ただ、何もないわけですから
そこから見える世界は更に
広がっていきそうです。

 

 

 

 

これまで身にまとっていたもの
(責務、役割、義務、価値観、とらわれ)
を手放し、身も心も身軽になって
さらの状態から見える景色、
感じられる情景は一体どんなもの
なのでしょう?

 

 

 

そしてそこに湧いてくる新たな知的好奇心
どんなものなのでしょう?

 

 

 

どうやら私たちの住むファンタジー
の世界に答えはなさそうです。

 

 

 

きっと行く場所、出会う人全てが
これまでとは別の意味を持つ広い世界が
待っていそうな気がします。

 

 

 

 

その中で行う神の実践がその人の見える
世界を更に広げてくれるのでしょう。

 

 

 

知ることで安心し、
世界を広げる。

 

 

 

その範囲は無限大です。

 

 

 

私たちの意志が続く限り、
その活動を生涯を通して
続けていくのですね。

 

 

 

知的生命体である人間の
本能に従って。

 

 

 

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