私たちの行く末

 

 

 

お久しぶりです。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

新年早々強い寒波が襲ってきそうです。
心と防寒の準備が必要ですね。

 

 

 

今日はこんなざっくりとした
テーマで話を進めていきます。

 

 

 

昨今では毒親親ガチャ
いう言葉が取りざたされ、生まれてくる
場所(家庭)を選べない苦悩を耳に
しますが、生まれてくる時間(時代)
選ぶことができない葛藤を抱えることも
あるようです。

 

 

 

 

例えば、戦争の時代に生まれた人
彼らにとって今の日本のような平和な時代に
生まれてくることは悲願であったはずです。

 

 

 

怪我や死との直面で、常に緊迫した
日々を想像すると何気ない暮らしが
どれだけ幸せかが想像できます。

 

 

 

かたや現在を生きる私たち…

 

 

 

近年ではコロナウィルスの
蔓延もあって、
・修学旅行に行けない
・授業が全部リモート
・交流の場がなく出会いがない

など、機会損失の嘆きの声を
よく耳にしましたね。

 

 

 

 

また、社会問題としては少子高齢化や
物価上昇など、未来への不安要素は
高まる一方。。

 

 

 

今までにない刺激や体験を
仮想空間・バーチャルな世界に求めていく
風潮も強いように感じます。

 

 

 

少し極端な対比となりましたが、
いつの時代も私たちは何らかの問題を抱え
皆で悩み、闘って生きています。

 

 

 

では、何故私たちはこういった問題・悩みを
抱えるのでしょう?

 

問題・悩みを抱えずに生きてはいけない
のでしょうか?

 

そしてそれは幸福なことなのでしょうか?

 

 

 

考える上で参考にしたいのは、縄文時代です。
縄文時代は、それ以降のどの時代とも異なり、
高い精神性・テクノロジー・自由を持ち、
自然と共に広い意味で豊かな生活
を送っていたことが示唆されています。

 

 

 

 

では、彼らと私たちの違いはどこに
あるのでしょうか。

 

 

 

それは、「人間主体か否か」です。

 

 

 

私たちは人間である前に知的生命体
あり、人間として育つためには
「人間」に合った能力の選択
しなければなりません。

 

 

 

 

以前、オオカミに育てられた少女のニュースを
目にしたのですが、彼女は本当のオオカミと一緒
に四足歩行で夜も寝ずにものすごい距離を群れで
実際に走っていたそうです。

 

 

 

そんなふうに、私たち生命体は本来は何に
でも
なれる状態から、人間に育てられること
「人間」に適した能力・成長を無意識にも
選び取ります。

 

 

 

そうしないとこの地球上で快適に
生きられないからです。

 

 

 

でも、人間を主体として生きるということは
当然この自然界とのギャップが生まれます。

 

 

 

自然界にはないところからスタートして
1から創り上げていくわけですから、
基本は川の流れに逆らって登っていくような
頑張りが必要になってきますね。

 

 

 

 

そして時代のどこかで
(縄文人の生き方でもある)
自然と同化している部分を敢えて切り離し、
人間が1から人間固有の世界・仕組みを
創り、後の世代に紡いでいく

 

 

 

その挑戦を人類皆で役割分担しているため、
世界のどこにいてもこの重荷は1人1人が
背負う格好となっているのです。

 

 

 

それは他に例を探すまでもない。
自身の人生を振り返れば実感することが
できますね。

 

 

 

私たちは生まれて間もなく
トイトレというトレーニングが始まり、
人間世界に馴染んでいく様々な躾
を受けて育ちます。

 

 

 

場合によってはそれが受けられない、
異質なものであることがありますが、
基本的には否応なしにです。

 

 

 

そして馴染んで快適に過ごせた
かと思えば次の課題が降ってくる…
養育制度です。

 

 

 

 

(保育園~)小学校~中学校~高校(~大学)。
堂々と振舞っていた小学校6年生の子も
中学1年生になれば立場としては
また一番下っ端です。
そんな立場の変遷を繰り返しながらの学習。

 

 

 

それが終われば今度は生涯を通して
社会に価値を提供していく仕事です。

 

 

 

 

こんなふうに人間世界を紡いでいく
義務や役割を成長と共に大きくして
いくわけですね。

 

 

 

下から這い上がって学習し続けなければ
ならない「人生の掟」と言えるかもしれません。

 

 

 

考えてみれば私たちは、
・運転するとき
・事業をするとき
・契約を結ぶとき

「免許証」といった許可・許されて行う
ことが当たり前の社会に生きています。

 

 

 

まさに義務・役割という「人間が造った」
世界に生きている象徴でもあるようです。

 

 

 

やはりどうあがいても、
このシステムの中に生きている以上
「悩み」が尽きることはなさそうです。

 

 

 

 

では、冒頭にも書きましたが、そこに
生きる私たちは幸福なのでしょうか?

 

 

 

鍵となるのは、「意志」
あるように私は思います。

 

 

 

当たり前ですが、義務・仕事・ルール順守
などイヤイヤやっていると心は窮屈に
なってしまいます。

 

 

 

私たちが幸福を感じるのはそれらを
こなした後にある・またはこなしている
最中に感じる自主性を発揮できる時間
ではないでしょうか。

 

 

 

単純な例で言えば、平日の仕事を頑張った
後に待っている休日の探索時間など。

 

 

 

逆に大変な仕事の中で、自分の役割をちゃんと
果たせたときに感じる達成感などもそうかも
しれません。

 

 

 

 

 

また、そもそもこの人間世界も
誰かがこうしたいと思った「意志」が
集約して創られた世界なのですから、
どんな小さな単位でも自ら創造していくこと
がヒントになりそうです。

 

 

 

良くも悪くも1度創られた世界は
長い歴史をかけた人間全体の所有物ゆえ
全体をいっぺんに変えることはできません。

 

 

 

でも、積み上げの中により良い変化を
取り入れるというのは「個」であっても
「組織」であってもできそうです。

 

 

 

そして、更に踏み込んで考えると
私たちにはもう一段高い「幸福」
あるように私は考えます。

 

 

 

それは「自然」への帰還です。

 

 

 

 

物事を極めた人の技や作品を見るとき
そこにもはや矛盾はなく、完全に
圧倒されるなんて経験はあなたにも
あるはず。

 

 

 

その人は「無理して」頑張って
やるのではなく、
自然とできてしまう
あらゆる一体感がそこにある
矛盾が1つもない

といった感じでしょうか。

 

 

 

人間が造ったものでも、あるラインを超えると
自然の一部に取り込んでしまう力があるのかも
しれません。

 

 

 

まさに原点回帰ですね。

 

 

 

 

そこには心の葛藤や争いとは無縁の
凪の中に感じる静寂な「幸福」
感じることができるかもしれません。

 

 

 

そして、昨今では世界もまた
クリーンエナジー
Eco
再生

などに力を入れ、自然で回る方向に
舵を切っている風潮を感じます。

 

 

 

人類も個も、
成長の中で少なからず「葛藤」の
時期(時代)を経ますが、行き着く
ところはまた自然であり、
巡り巡るのですね。

 

 

 

そして、それはただ最初からあった
「自然」ではなく、私たち人間が挑戦の上に
勝ち取った様々な知恵・想い・感情・技術…
そんな軌跡が見える特別な「自然」なの
かもしれません。

 

 

 

 

あなたもそんな唯一無二の
「自然な自分」になって
大きな幸福感を感じてみませんか?

 

 

 

あなたからのご予約、
お待ちしています。

 

 

 

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