こんにちは。
鹿嶋です。
春です。
ようやく暖かくなり始めました。
今日は悲しみと怒りについてです。
私たちは日々生きていると不条理な目に
遭ったりその場を目にすることがあります。
当然、そんな時は自分の尊厳が傷つけられ
”怒り”が湧いてくるのですが、その怒り
の根源はどこにあるのでしょうか。
それは、理解されないことです。
人はあらゆる苦悩も誰かに理解される
ことで気持ちが楽になります。
または、辛い目に遭ってもその背景や
理由が分かれば、許したり納得して次に
進むことができたりします。
つまり、起きた事象云々よりも、
・それに対して自身が理解できること
・自身の気持ちを理解されること
が重要であり、それがないままだと
怒りを募らせることになります。
つまり、怒りの根源は
自他によって”理解”の域まで到達されない
ことに集約されます。
そして、その怒りから解放される理解には
ある共通点があるような気がします。
それは「自分と相手は違う」ということです。
肉体的な喧嘩をする際、自分と相手との
距離が近くなりますが、どうやら”怒り”は
自他の距離を縮める作用を持っているようです。
そして、
・置かれた環境/境遇や宿命
・自他の考えの違い
・能力の差
等、様々なことを含め自分と他者は違う
という理解が怒りを抜ける上で必要な
過程であるのです。
そしてそれは悲しいことでもあるでしょう。
何故なら”分かり合えない”のですから。
ここで見方を逆にして考えると、
悲しみの根源は”自分と異なる”こと
に集約されるのだと想像できます。
考えてみれば、細胞が分裂する前は
同じ1つの個体です。
今でも多数起きている民族紛争ですが、
最初は皆同じ”人類”です。
または自然と共生の生き方から
人間が豊か/快適に生きれる文明開化優位
の生き方への独立。
進化なのか、分裂なのかはさておき
自分と異なる、生き分かれになるという事象を
人間の感情面に当てはめると”悲しみ”が
湧いてきそうです。
スタートは悲しみなのですね。
そして異なる相手に
「何故理解してくれないのか」
という怒りの感情が当然生まれるわけです。
時折感じるのですが、
自分の身に起こった事象に理解や理由探し
(=つまり怒り)なしにまず悲しみの感情を抱く
人、または怒りよりも悲しみの割合が大きい状態
をキープしている人はある意味本質からぶれない
のかもしれません。
異なること
理解されないこと
それぞれが生み出す悲しみと怒り…
時に妥協や中和(再統合)。
それ(またはそんな箱)が人間界で
日々を過ごすのに必要な仕組みなのでしょう。
悲しみポジション優位であればある意味
エネルギー消費量は少ないのかもしれない。
しかし、人間世界に馴染むために敢えて
怒りポジション優位に感情を振る…
そんな意味不明な一歩を踏み出す勇気
によって、相手を介して再び1つになろう
とする過程で得られる喜び、満たされ感を
感受できるのかもしれません。
元々いた場所に立ち返る、
ただそれだけのことを壮大な演出と
肌で感じた幾多の”情”なるものを引っ提げて。
あなたからのご予約、
お待ちしています。