人生はお遊戯鑑賞会

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

大分暑くなってきましたね。

 

 

 

夏と言えば海だったり、バーベキュー
だったり色んなものを楽しむ季節ですね。

 

 

 

前回のブログでは、知=信、
つまり本当は絶対的に定まっている
ものなど何もないという話でした。

 

 

 

では、今日は何もない「無」から
始まる世界で、この地球上に生まれ落ちた
私たちは何のために生きるのかといった
お話です。

 

 

 

私たちは不確かな世界で葛藤しながら
生きるため、多くの人はこの世界の中に
うまくいく「法則」であったり、
成功する「秘訣」のようなものを編み出そう
とする傾向がありますね。

 

 

 

 

「安心」を探し求める人間の性
言えるのかもしれません。

 

 

 

その中には偉人が発掘してきた様々な
教訓と言えるようなものが存在し、
私たちは歴史の中にある程度の答え
みたいなものをそこから発掘することが
できます。

 

 

 

スマホのような近代システムがあれば
割と簡単にその時に求めている「答え」が
見つかりそうな気がします。

 

 

 

ですが、その答えを見つけてもまた更に
疑問が湧いてきて、また違う答えが見つかる。

 

 

 

「これで良し」と思ったはずなのに、
また別の人間関係で悩み、今度は更に
深い答えが見つかる…

 

 

 

何だか私たちはそんなことを
永遠と繰り返す生き物のようです。

 

 

 

 

どこまでも続く探求心とも取れれば、
いつまでも同じことを繰り返す学習速度
の遅いおっちょこちょいな人間たち
とも言えそうです(笑)

 

 

 

そういう意味で言えばこれが全てなんて
答えは示せないのですが、私が今思いつく
1つのことは原因と結果です。

 

 

 

それはどういうことか?

 

 

 

物事の捉え方というのは多種多様で、
正解は人それぞれ、千差万別です。

 

 

 

ですが、今起こっている現象も何らかの
原因があっての結果であることは
覆すことができません。

 

 

 

自分がこの世に生まれてくるのも両親の
出会いという原因があってのこと

交通事故が起こる背景には車両点検ミスや、
運転手のその日の体調、はたまた気性の荒い性格
に至る家庭環境にまでさかのぼるかもしれない

現在の近代IT社会を生きているのは弥生時代
以降、人間が世界を主管しようと結束して
努力してきた軌跡の上にある

 

 

 

など、物事には必ず小さな原因が
絡み合い、積み重ね合った集合体として
結果(現象)が伴います。

 

 

 

 

とかく私たちは人間ですから、それに対する
「意味合い・意味づけ」のほうを重視する傾向
にありますが、人間という枠を外して考えると
最後に残るのは「原因と結果」になります。

 

 

 

交通事故が起きた際は警察官は感情ではなく、
単にそういった原因を徹底的に追及しますね。

 

 

 

でも、それが被害者の心を救うせめてもの
答え・真相に繋がるのですからとても
大切な作業でもあります。

 

 

 

ただ、
残った答えが原因と結果のみ
意味づけなど本来はなく、何もないのか
と考えると何だかそっけないですね。

 

 

 

では、全ての枠を除外して
「原因と結果」のみの観点から私たちが
生きる意味を考えたらそこに残るのは
何なのでしょうか?

 

 

 

それは、現象を楽しむです。

 

 

 

 

突然ですが、子どもたちを見ていると
ふと思考が止まるなんて経験はありませんか?

 

 

 

アリさんが動いてる
あ、飛行機!
痛かった、血が出た(涙)

 

 

 

など、私たちが景色の一部として感知
しないようなことまで「現象」に事細か
に”反応”し、感じているのです。

 

 

 

それは、私たちの理解でいえば、
驚きの感情なのかもしれません。

 

 

 

でも私たちはそこに
ワクワクであったり
新鮮で心躍る感覚であったり
感情性豊かに感じれる喜びのようなもの、
即ちそこに粋な感覚を見出しています。

 

 

 

そこに私は1つの答えのような
ものを感じるのです。

 

 

 

また、大人の私たちの視点からも
似たような世界観を想像できます。

 

 

 

よくよく考えてみたら世の中は
自分が一生懸命作ったものを披露する
世界になっています。

 

 

 

レストランで出てくる料理
部活動で年に1回参加する大会(試合)
プロ野球リーグで日本一を決める催し事
今日着ている服のコーディネート

 

 

 

など、日常的なものから特別な日まで実に様々。

 

 

 

普段目にする広告はどれもキラキラして
いるし、出てくる料理の味付けは基本味が
濃いめでとても綺麗な造りをしています。

 

 

 

 

一方が、頑張り創造し、
もう一方がそれを感じ味わう相互関係
成していますね。

 

 

 

陰と陽、盾と矛の関係がそこに生じます。

 

 

 

子どもの頃と異なるのはそれが創造や努力の
結果で生み出した「成果物」でありますが、
私たちはそれを感じ、味わいながら、感動すら
覚えることができています。

 

 

 

この世、すなわち物質界に生まれ落ちた
私たちは環境や物質的なものの制限
課されることは避けられないのですが、その中で
起こる全ての現象を感じることができます。

 

 

 

そしてせっかくこの「地上」に限られた時間
「いる」わけですから、どうせなら何かやって
楽しもうという考えです。

 

 

 

もちろん、様々な苦痛や辛い経験から、
楽しむなんて程遠いという方もいるでしょう。

 

 

 

はたまた抱えている責務・葛藤の
さなかにいる間は「楽しむ」など言って
いられないでしょう。

 

 

 

ただ、それをずっと遠い遠い視点から
見つめた時、そんなことすらも味わい
深い経験だったりするのです。

 

 

 

例えば、辛い部活動を
3年続けた学生時代…

 

 

 

青春なんて全部犠牲にして
楽しいことなんてなかった。

 

 

 

鬼コーチの言いなりだった。

 

 

 

3年かけてやった集大成の試合でも
不甲斐ない結果に終わった…

 

 

 

でも、卒業の瞬間はやってくるのです。

 

 

 

その時になって初めて感じる哀愁の感覚。

 

 

 

数々の失敗もそこに愛おしさを感じ、
それがなかったらまた寂しいと思う。

 

 

 

 

これまで見えてこなかった監督の想い
や人間らしさが垣間見れるようになると
さらに切なさを感じたりしますね。

 

 

 

そう、終わりはやってきてしまうのです。

 

 

 

それの人生バージョンで考えると、
人生にも終わりがくる儚さが感じられ、
今ある全ての「現象」が愛おしさ、
哀愁さを帯びる格好となります。

 

 

 

仮に物事を捉える尺度を円とすると
その径を長く取ることで見える視座
が変わり、現象を味わう深みが出てきそうです。

 

 

 

また、そんな視座の高低を行き交う中で、
1番高い視座からすると全ての出来事は
お遊戯鑑賞会のように映るのだと想像します。

 

 

 

この世界にあれがあったらいいな。
自分はこれやる
俺はこれ!私はこれ!

 

 

 

そこに色んな職業が生まれ、
ほらこんなことができた!
こんな実績が積めたんだぜ。
見て見て、このコーディネート…

 

 

 

 

そう考えると私たちはいくつになっても
やってることは変わらず子どものまま
なのかもしれません。

 

 

 

扱うもの、価値観の変化はありながらも、
いつまでもピュアに現象を味わいたいもの
です。

 

 

 

その中でああでもない、こうでもない
と言いながら、物事が前に動いていること

 

 

 

つまり躍動していたり、活気がある
ことに喜びを
感じるのかもしれません。

 

 

 

とかく現代社会は
・Aという方向
・Bという方向

といった区画整理が進んでいるため、
現象を味わう方向性があらかじめ決められて
しまってるようなところがある気がします。

 

 

 

Aというコミュニティに行って参加すれば
こういう感覚が味わえる。
自分と同じ感覚の人たちがいっぱいいる…

 

 

 

Bという社会はこういうルールだから
こう立ち振る舞ってそうすれば…

 

 

 

「安定」を求めたがゆえに造られた区分け
とも言えますし、予定調和の色合いがより
濃くなったとも言えるでしょう。

 

 

 

しかし、「現象を楽しむ」という観点に
重きを置くなら、視点を定めることの弊害
にも目を向けなければなりません。

 

 

 

何かを定めることはそれによって得られる
「安心感」もありますが、同時に物心ともに
「制限」がかかり、知らぬ間に
常態化
反復化
他者との隔たり

の状態になり、感受性やそこから生まれる「情」
の行き交いが失われている側面があるからです。

 

 

 

私たちはどこまでいっても何かと繋がり、
何かを感じることで満たされたい生き物です。

 

 

 

だからこそそれが定められた方向、形式、
お作法に留まらない「自由」であることが今後
の更なる充足感・満たされ感に繋がります。

 

 

 

そして現代における私たちの人生の葛藤は
その制限を外していく挑戦でもあるような
気がします。

 

 

 

 

以前は必要だったネクタイを外した
クールビズのように、その時は進化・発展の
名目上必要だったお作法や隔たりを外し、
「定めない」ことの大切さも同時に学ぶ
歩みをしているのでしょう。

 

 

 

それはイコール、自分に起こる現象に
関して感情のブロック・執着・制限を外す
ことに直結します。

 

 

 

原因があって今の結果(現象)がある…

 

 

 

これまでの経験全てを受容し、愛おしさを
覚えたときどんな出来事も貴重な体験となり、
もっともっと味わい尽くしたい…
そんな想いが心の中に湧き上がってきそうです。

 

 

 

童心のように目を輝かせ、
どんなことにも心を躍らせながら。

 

 

 

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