静と動

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

早くも4月。
出会いと別れの季節です。

 

 

 

私たちは日々営みをし、何らかの
「生産活動」をしています。
言うならば「動」を主体として
”活動”していますね。

 

 

 

今日はそんな「動」と、
対する「静」に関してのお話です。

 

 

 

生きていると、どうしても
「動」を主体に考えがちですが、
「静」…つまり動かない大切さも
時折感じ取ることもできます。

 

 

 

 

社長という最終決裁をする立場
太陽や星など目印/基準になるもの
お客としての立場から捉えるお店

 

 

 

色んな意味の「静」がありますが、
いずれも、動よりも静のほうが
存在は大きい気がします。

 

 

 

それぞれの立場や考えがあるので広義の
意味では皆対等なのですが、私たち人間は
何等かの”基準”や”枠組み”を必要とするため、
どうしてもその基準になり得る存在を必要
とする…

 

 

 

それが現代の資本主義経済で言えば
社長であったり、~大臣であったり、
いわば権威となって現れ、そういった
「静」の役割を誰かが担うことになるのですね。

 

 

 

また、身近なところでは家族単位で考える
のも分かりやすいかもしれません。

 

 

 

3世代に渡る家族が一緒に暮らしていたと
すると、小さな子供はずっと走り回って
転んだり泣いたり笑ったり。

 

 

 

…ずっと動きっぱなしですね。

 

 

 

父母は大人な判断をしながら
役割を担い、子を守るために頑張る。

 

 

 

そして祖父母の立場にある人は
そんな子供、孫たちを一歩引いた
立場から見守る。
…あまり動きませんね。

「静」の色が濃くなるわけです。

 

 

 

私たち人間社会を1つの円とすると、
「静」に分類される人たちはその辺縁の
ところに存在しているような気がします。

 

 

 

 

では、その辺縁の世界にいる人たちは
どこを基準にしているのでしょうか?

 

 

 

また、基準を持っているのでしょうか?

 

 

 

答えとしては、非物質性の高い基準を
持っているになると思います。

 

 

 

例えば仕事で大きな責務を負い、
私生活もほとんど投げ打って専念
している人は、仕事という場所に
ほぼ板付きの状態になります。

 

 

 

動きたくても動けないわけで、
「自由」が制限されるのです。

 

 

 

でも、そういった意味で「静」が
完成してくると、その人にしか見えない
というか感じ得ない感覚”や”直観
ようなもの(職人レベル/肌感覚)を
体得したりしますね。

 

 

 

思考や物質的な捉え方から少し”離れて”
感じる世界に入っていきます。

 

 

 

だからこそ、

これは危険だ
今は動くべきではない

といった判断ができるようになります。

 

 

 

 

また、別の例で言えば前回のブログで
あった一貫性’(ダッシュ)を元に、
自身の葛藤から抜け出すケースを載せましたが
それを可能にするのも、この非物質性の高い
箇所(円周の辺縁)を埋める作業を完遂する
ことが条件になってきます。

 

 

 

本来は一般的な周回の円があったとして
そこを走って轍を作り、或いはある程度他の
人が通った軌跡を通ってそこを埋めていけば良い
わけですが、その更に外側、、
辺縁の枠もハッキリ見えないような場所
を走って轍を作って埋めていく作業
はなかなか骨が折れそうです。

 

 

 

 

普通の人が価値観として理解できないような
ことに重きを置き、時に途方もない反復作業を
必要とすることでしょう。

 

 

 

また、場合によっては神事というか、
非物質性の高い場所ならではの使命
先に果たす行動をしているのかもしれません。

 

 

 

でも、もしそこが埋まって
(使命を果たして/権威の獲得ができて)
無事に辺縁の轍が完成すれば、ようやく中の
一般的な周回の円に入っていけるわけです。

 

 

 

 

何だか、ベンジャミンバトン
のようですね(笑)

 

 

 

辺縁の(静の)境地を先に完成させた後に
父母の立ち場や、自己責任が果たせる
場所に自分を治める。

 

 

 

そんな数奇な人生も興味深いものです。

 

 

 

いずれにしても、彼らは
意識に上っているかどうかはともかく、
非物質性の高い”基準”をどこかで
感知していて、時にそこから指令たるものを
感じ取って動いていたりするのです。

 

 

 

聖ならぬ、静なる存在…

 

 

 

行動して動いて成果を出すことに重きを
置く私たち地球人の当たり前は、
もっと広い世界からすると全然当たり前
ではないのかもしれません。

 

 

 

 

疲れたから酸っぱいものが飲みたい…
クエン酸を摂取したい…

 

 

 

そう突き動かされてドリンクを手に取るのも、
本来体内で起こるエネルギー生産サイクル
に必要な成分を調整する必要ができたためで、
本当は私たちの意思ではありません。
エネルギー生産側の意図は私たち人間の考え
とは全く違ったもので成り立っています。

 

 

 

そんなふうに考えると動いてる側は常に
何かに突き動かされている…
やはり静があってそれに呼応して
後付けで人間的な理由づけが紐づいて
動があるのですね。

 

 

 

あなたは今、どんな「静」に突き
動かされて考え行動していますか?

 

 

 

あなたからのご予約、
お待ちしています。

 

 

 

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