「静」という人間関係

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

早くもGWの半ば。
円安の影響で外国人の方も
多く来日しているようですね。

 

 

 

前回は普段の「動く」ことを主体とした
軸から「静」…つまり動かないことで感じる
世界観を垣間見ました。

 

 

 

この世に生きている私たちは
100%どちらかに属してるというよりは
両方の側面を持っているものです。

 

 

 

今回はその「静」を中心とした
人間関係を見ていきたいと思います。

 

 

 

 

例えば通常の私たちは、人が起こす
「成果」であったり、「結果」に期待
することが多いような気がします。

 

 

 

仕事ではもちろん、その社員の実力であったり
目標を達成してくれるという成果やアクション
が大切になってきます。

 

 

 

また、恋愛でも
この人はこういう一面があって好き
こういう行動が取れてたくましい
など、やはり「動」の部分に重き
置いて判断しています。

 

 

 

では、「静」に重きを置いて判断
するとどうなるのでしょう?

 

 

 

誤解を恐れずいえば、
対象の人物そのものが何らかの
「意味」を持つ存在になります。

 

 

 

例えば、Aさんがある課題や試練を
抱えていたとして、ずっと葛藤の
日々を過ごしています。

 

 

 

なかなかその試練は大変なもので
苦悩の日々を送るわけですが、
ある日Aさんがふと、スマートフォンを
覗くと、高校生時代の部活の顧問の
先生(師範)がSNSにポップアップで
上がってきているのを見かけました。

 

 

 

 

その時Aさんの中では、
厳しい部活生活で試練を乗り越えて
偉大なる先生が「よく乗り越えた、昇格!」
と言われた体験記憶が連想されました。

 

 

 

すると実際に、その時期から現実に抱えていた
課題、試練も終わってホッと肩をなで下ろす
ことになるのです。

 

 

 

そう、Aさんにとって高校時代の部活
の顧問の先生は自分に「課題を乗り越えた
ことを認めてくれる存在」という意味を
持ちます。

 

 

 

もちろん、Aさんの心の中で
「この先生は今何してるのかな?」
「元気にしてるのかな?」
といった「動」の部分に気がいくこと
あるでしょう。

 

 

 

しかし、「静」のフェーズでは
そんなことはサッと通り過ぎて、
「合格」の意味や、
「それを認めることができる」権威の象徴…
それ以上でも以下でもない、
ある意味点在することで意味を成す
人間関係がそこに現れます。

 

 

 

 

Aさんの高校時代の顧問先生はそんなに
偉い人かと言えば、そうではないのかも
しれません(笑)

 

 

 

また、当時はバリバリ活力があって、
実力もあったけど今はゆっくり時を
過ごすお爺さんなのかもしれません。

 

 

 

しかし、ここでポイントなのは、
あくまでAさんの無意識の中で
そのポジションに位置する人物
分類されているということですね。

 

 

 

会社や政治、宗教の派閥などでもそうですが、
何かが大きく纏まってくると、
~党、~党、~系、~系など良い悪いは
別として意味合いを持ちますね。

 

 

 

それに近いことが個々の潜在意識
レベルでも起こって分類されるのです。

 

 

 

 

そしてその分類は無数にあり、
際限ないのですが、この物質世界が
そうであるように無意識の世界でも
「客観視」の観点から階層分けされる
点も重要な気がします。

 

 

 

実力を積み重ねてきた人がどこに
行ってもその実力を発揮し、適当な
ポジションに就くように、無意識の
レベルでもその座に位置される人は
集合的無意識の観点からして、
下の階層を包括した高い視座を持つ人物
ということになるようです。

 

 

 

また、”生きる”ということの最終地点である
「死」に関しても、様々なストーリーや営みを
サッと通り過ぎ、結果として「死」すらも
この宇宙の中の
1つの意味に過ぎない
と言えるかもしれません。

 

 

 

 

「冥土のみやげ」とは死を超越した
人に相応しい言葉に聞こえてきます。

 

 

 

同時に死は良い・悪いと判断できる
ものではないことへの気付きもここから
見えてきそうな気がします。

 

 

 

更にもう1つ、
個々における他者の意味の分類が幼少期から
形成されている点も重要であると思います。

 

 

 

例えば、子供の頃から母親が恐怖の
存在だったとすると、大人になっても
その恐怖の母を象徴する「静」の
存在が身近にいたりするものです。

 

 

 

しかし、実際のところ
「客観的判断で」その母親が発達障害
であれば、その恐怖の母は「客観的」
には恐れる存在ではありません。

 

 

 

同じく、それを象徴する目の前の人物も
それに相当する、本当は恐れるに足らない
人物なのかもしれません。

 

 

 

 

でも、当人にとっては実際に「恐怖の母」
の存在に位置してしまっているわけですから
大変です。

 

 

 

単なる配置替えをしても意味がないので、
一度分類されてしまった配置図全体を
刷新するか、または自身のランク上げに
よって更に上の階層の分類にステージ転換
するか…
そんな挑戦に立たされることになりそうです。

 

 

 

少し葛藤の場面をメインに例にあげましたが
ポジティブな意味も持つことができます。

 

 

 

実際に会わなくても他者が存在してくれて
いるだけで、自身にとってある意味
もたらしてくれる。

 

 

 

それは生きる上でとても重要なことであり、
安心感の源です。
何故なら生きること自体、何らかの意味を持つ
(抱える)ことに他ならないからです。
そして「静」の次元は、他者が何らかの意味を
私側の内面世界を創り上げる一部として
点灯する(ポッと湧き出る)ような認識空間
なのかもしれません。

 

 

 

もし、その意味が全部なくなってしまえば、
自分という存在の意味もなくなってしまいます

 

 

 

ご縁は本当に大切なのですね(笑)

 

 

 

普段はなかなか感じ得ないのですが、
自分という意味を保持できているのは
自身の中で分類された複数の他者の意味に
支えられているからです。

 

 

 

そういう意味では、
誰かに「認知」してもらっている、、

 

 

 

またはその認知がその人にとって
どんな意味合いや深さを持つものか、、
それは自身の存在に関わるほどの
影響力を持ちそうです。

 

 

 

何故なら自身の分類も他者に認知されないと
この世において”関係”が築けないがゆえに
深い、または階層分けされるレベル(意味合い)にまで到達できない/内面世界が広がって
いかない
からです。

 

 

 

 

逆に他者からそう認知されているということは
自分自身がその階層/次元に存在している、
またはその
可能性があることを示唆している
からに他なりません。
結果として認知される「現象」が
自身に顕在化される
のですね。

 

 

 

その人の世界(輪)の中に入れてもらうというか
その人の中で認知され、いずれかに分類された
1人として位置づけら
れることでまずは
支点を得ることがスタートになるのです。

 

 

 

そして、その人がどこまで積み上がった階層の
場所に
いるか現在の立ち位置を客観的に判断する
際はその人のレベル/ランクの到達具合
ジャッジしていく
流れに必然的になってきます。

 

 

 

「静」からなる人間関係…

 

 

 

他者との相互関係から織りなす
自身の持つ意味は何なのでしょうか?

 

 

 

または他者が表現する意味から自身に
何を感じ取ることができるでしょうか?

 

 

 

目の前の超具体的な視点から
宇宙にまで広がる高い視座まで私たちが
感受できる想念/感覚、またはそれをもたらす
実体験は無数に存在していそうです。

 

 

 

時に”静”なる、最も広い視座が織りなす
意味に心を傾けて自身の存在意義を感じて
みるのも良いのかもしれません。

 

 

 

あるものがある
あるものしかない

 

 

 

そんな究極の存在意義が周囲から成る
意味で支えられている(結びついている)
のだから受け入れる他なくなりそう…

 

 

 

その次元では否定の余地がなく、
それでいて窮屈でもない気がします。

 

 

 

「静」にふさわしく、
そこには良いも悪いも存在しないのですから。

 

 

 

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