諦めの境地

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

今年は暖冬ゆえ桜が満開になるタイミングが
早いようです。しかしまだまだ寒い日も多い
ため花見は寒さとの戦いになりそうですね。

 

 

 

前回は一般的な人生を終えた後にある
”虚無の先”とでも呼ぶべきか、、
そんな心理的一面を垣間見ました。

 

 

 

悲しさのベールに包まれた人生の枠組み
に気付けたからこそ、次の可能性や新たな
世界が見え始めるのですが、「悲しみ」
という感情面に焦点を当てると、それと
地続きにある「諦め」の感情に駒を進める
ことが分かってきます。

 

 

 

今日はそんな諦めについてのお話です。

 

 

 

私たちは生きていると時にどうしようも
ない悩みにぶつかることがあります。

 

 

 

努力や成果でそれが解消できれば
良いのですが、そうもいかない場合も
多々ありますね。

 

 

 

家庭環境なんかがその1つの
例と言えるでしょう。

 

 

 

アル中の父が毎晩暴力を振るっている
発達障害グレーゾーンのような母を持つ
家庭内がカオスでどこに地雷があるか怖い

 

 

 

など、最も中核の家庭内に問題がある
普段の私生活にもストレスがかかり、
安心して過ごすことが難しくなります。

 

 

 

 

しかし、そんな根深い悩み・問題も
「諦め」までいけば悩みではなくなります。

 

 

 

諦めることが難しい問題だから悩みに
留まるわけですが、では逆に何故諦め
られないのでしょうか?

 

 

 

それは、
「信じたい」気持ち/可能性を
胸に抱いているからであり、
その信じたい気持ちと諦めたい気持ち
の間で感情が揺れるからですね。

 

 

 

本来は隙間なく埋まって安定してる心に、
その揺れの分空白のスペースができ
てしまい、全体を通した集中力が欠けて
不安定な心理状態になってしまいそうです。。

 

 

 

自分と密接な関係を持った人、
特に自分を育ててくれた親には
ある種自分の分身であるかのような
親しみの情を奥底に持っているものです。

 

 

 

暴力を振るうようなアル中の父であったり、
人様に迷惑ばかりかけてしまうような兄弟など
もう耐えられない/離れたくて仕方がない
と心底思っていても、頭で考えるのとは裏腹に
本能的な感情が行動にブレーキをかけてしまう
こともしばしば。

 

 

 

大変な心労を背負わされて
決別したいのにできない…

 

 

 

その気持ちの背景には
「きっと良くなってくれるはず…」
そんな期待が入り混じっていることでしょう。

 

 

 

 

また、断片的に見た際の過去の言動から
こんな良いところもあるのに
楽しかった思い出もたくさんある
奥底では自分のことを想ってくれている

など、逆張り的に良い一面から前向きな
可能性を考えるのは自然なことです。

 

 

 

むしろ、その落差があればある程
その人が抱えている「恐怖」の
度合いも強くなりそうです。

 

 

 

でも、自分の負担が重くなってくるごとに

そんなこと言ってられない
何とかしなくては

と、葛藤が強くなっていきますね。

 

 

 

ぶつかり合いが生じたりする中で
同時に相手の本当の姿であったり、
断片的ではない”全体像”が見えてきます。

 

 

 

そして理解を進める中で、仮に相手が
心理/精神状態に関わる発達障害等を持っている
ことが発覚した場合、その相手への理解
よってその人の人生が一変するくらいの
衝撃や心理的変化が起こることでしょう。

 

 

 

何故自分に関心を持ってくれなかったのか
何故ちゃんと扱ってくれなかったのか

または、

あれはちゃんと扱われるとは違っていたのか
そもそもそれが不可能だったのか

という核たる部分の理解に至り、
逆にいえば「普通」のちゃんと扱われる
立場から物事が見えるようになるのですね。

 

 

 

 

しかし、相手が障害では
ない場合はどうでしょう?

 

 

 

先天的な脳の障害ではないがゆえに
良くなる可能性もあるのです。

 

 

 

そういう意味では、アル中やDVする正常知能
の父のほうが諦めるのはより難しくなる
のかもしれません。

 

 

 

しかし、そんな場合でも相手の全体像の
理解”という工程に例外はありません

 

 

 

迫る来る状況に追い込まれ、自分としても
立場(ポジション)を取らなければ
ならなくなる。。

 

 

 

例え相手が快方に向かう可能性が
あっても今、判断が求められる…

 

 

 

そんなふうに葛藤する中で
相手への理解も無意識に深い
ところに行き着きます。

 

 

 

全体像の理解と先に触れましたが、
その全体像は、その人の様々な側面が集約
されていき、点在するような人物像へと
遠巻きに見得ることもできます。

 

 

 

その人の過去、現在、未来までもが
集約された「今」の人物像であり、
あらゆることが”裁定”された後に
相手とどんどん「距離」が取れて
最終的には点のように映る
視座なのかもしれません。

 

 

 

そうなって初めて、
今後良くなるかもしれない
ずっと良くならないかもしれない
けれど、私はこう判断する
(共存する/決別する)
「ポジション」が取れるようになります。

 

 

 

 

諦めの瞬間ですね。

 

 

 

状況(相手)は変わらない/悲しい
けれど、ジャッジするのです。

 

 

 

そしてジャッジできるということは
自分なりに納得するまでの「理解」に
到達したことを表しています。

 

 

 

先に無意識にと表したのは、
意識には登らず感情のままジャッジする
ケースもあるからですが、人の無意識は
自分が思っている以上に感受性高く
深い理解をしているものです。

 

 

 

実際に、決断したり何らかのアクションを
起こした後にそういうことだったのか
”理解”が後から追いついてくることも
往々にしてあると思います。

 

 

 

葛藤が強く、迫り来る状況との闘いの中で
判断したり決断を下したりするわけですから
完全に冷静でいられるわけではありませんよね。

 

 

 

理解し、諦め、決断し、
更に回顧して理解と納得が進む。

 

 

 

そんな中で状況も落ち着いてくれば、
心の中にあった隙間
心理的な揺さぶり/脅威も塞がって
心が安定してきます。

 

 

 

もしかすると、そんな心の隙間を
相手も同じく抱えていたのかもしれない
という気付きが得られるかもしれません。

 

 

 

 

「どうしてそんなことするの?」
と理解できず敵視/警戒してしまう相手でも、
実はその人が抱える心の問題ゆえの行動
であることも多く、仕方がないと言える
かもしれません。

 

 

 

そして、その「仕方がない」と思える
境地に至るまでが、悩みが悩みでなくなる
”諦め”への道のりなのですね。

 

 

 

更にそれは、
同じ「轍」から離れ、
自分の道を進むこと
でもあります。

 

 

 

小さい頃は、親から敷かれたレールに
沿う
他ありませんし、それがないと
命さえ脅かされかねません。

 

 

 

でも、そんな強大な引力で引き付けられる
であっても、そこから抜けるとより快適
に前を進める道が現れます。

 

 

 

家族は社会の最小単位。
それは心理的世界も同じです。

 

 

 

であるなら、最小単位である家族の中で
良くも悪くも従来の「轍」が切れれば、
社会の中でもそれを象徴するかのよう
変化が現れます。

 

 

 

職場環境が変わる
信頼され真の”仲間”として受け入れられる
本当に頼りになる人が現れる

 

 

 

など、心の隙間が埋まる現象
外界の世界にまでその影響が波及します。

 

 

 

 

悲しみと地続きにある諦めの境地…

 

 

 

そこに行き着くまでの苦悩は時に
想像を絶する程のものでしょう。

 

 

 

でもきっとそれは、
人を信じたいという想い
があるからこそ、そこまでの
”葛藤”を生じさせるのだと思います。

 

 

 

そしてその葛藤を乗り越えた先にあるあなた
が歩む道では、その「人を信じたい」想いが
更にあなたを前に突き進める”原動力”
なってくれることでしょう。

 

 

 

あなたが築く轍を一緒に
歩んでくれる仲間と共に。

 

 

 

あなたからのご予約、
お待ちしています。

 

 

 

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