悲しみから始まる営み

 

 

こんにちは。

 

 

 

新年を迎えました。

 

 

 

今年は辰年。
辰が暴れまわるような年初めですね。

 

 

 

悲しみとともに始まった
年初めでもありました。

 

 

 

さて、前回は悲しみの後に
これまでの自分自身の受容→新たな規範
に繋がる流れを見ていきました。

 

 

 

私たちは希望を胸に抱いて前向きに
生きているつもりですが、実はこの
”悲しみ”こそが「自分」という
大気圏を
覆っているような気がします。

 

 

 

或いは”悲しみ”に至る一連の流れが
生きる源、原動力であり、その結界を
どうにかこうにか守っているのが
大枠で見た際の人間の生命活動であると
思うのです。

 

 

 

それはどうしてか?

 

 

 

小さい子供を1つ例にとる
ところから考えていきます。

 

 

 

まだ歳の幼い子は、親に守られ
ながら日々を送っています。

 

 

 

守られているとはいえ、
色々と学ばなければならない時期でも
ありますので、痛い目に遭うことも
出てきますね。

 

 

 

走って転んで膝を擦りむいたり、
どこかに頭をぶつけてたんこぶ作ったり…

 

 

 

 

でも、通常その度に”母”なる人から
大丈夫?
痛かったね。
と、受け止めてもらうのですね。

 

 

 

言うなれば、悲しみの受容です。

 

 

 

するとどうでしょう?

 

 

 

あんなに痛かった想いもどこかに
すっ飛んで笑顔になってまた
走り出すのです。

 

 

 

悲しみは受容されるとまた次の
ステップに進むことができるのですね。

 

 

 

大人になるとある程度のことは自分で
受容でき、母親たる人物は主としては
いなくなりますが、パートナーだったり、
仕事仲間だったり、その時に応じた人が
その時の感情を受け止めてくれたりします。

 

 

 

学校や職場など、あらゆる場所には
階層があり、登れば登っただけ、
また上の階層の人に受け止めてもらう
ことも可能です。

 

 

 

人生はそんなことの繰り返し
とも捉えられますね。

 

 

 

しかし、通常生きている中ではあまり
受け止めてもらうことのない悲しみ
もあるのではないでしょうか…

 

 

 

臆するに、差し迫った
強迫観念を伴わない状況下で感じる
”生まれてきたことに対する悲しみ”
がそれに相当するのではないでしょうか。

 

 

 

 

何だか悲観的な内容になってきました(笑)

 

 

 

生きるということは、
様々な希望、喜びがありますが同時に
様々な制限を受けることであり
様々な責務・重荷を背負うことでもあります

 

 

 

或いは悲しみを受容するまでの
小さなサイクルを繰り返す連続の日々。。
成長という前向きな考えもありますが、
生きている間それを続けなければならない
苦悩も同時にあり、それが他者に伝染して
しまわぬよう、または自分でも自覚しないよう
普段は無意識の奥にしまい込んでいます。

 

 

 

また、そんな中でも前向きに闘わんと
するための意味/意義をもたらす幻想
常に私たちを取り巻いています。

 

 

 

もし、ある意味最も深い層である
”生まれてきたことに対する悲しみ”
の受容を成すのであれば、その生きる
幻想自体を失う必要が出てきます。

 

 

 

それは、”虚無”を受け入れる
ことに他なりません。

 

 

 

人間が古来から築き上げてきた
思想や歴史、文明、普段の日常含め
全てはこの虚無から遠ざかる言動であり、
それが生きるということでも
ありますね。

 

 

 

過ぎゆく時間の流れをひっくり返して
考えてみると、その”虚無”
”本当は何もない”という悲しみに
行き着かないように必死に抗って
色んな幻想を造って生きているの
私たちと言えるでしょう。

 

 

 

 

そういう意味では、
例え憎しみであっても何もないよりは
まだそこに可能性を見出せそうな気が
してきます。

 

 

 

また、普段は身を隠すジョーカー的な
存在である”恥”感情も、何とか悲しみ
に行き着かないようにプライド、尊厳
という形で自分を必死に保とうと機能して
いるように思えます。

 

 

 

悲しみから始まる人生の営み…

 

 

 

誰にも受け止めてもらえそうにない
この階層の悲しみの向こう側に見える
景色は一体何なのでしょうか?

 

 

 

また、それに気付かずに必死に
生きている私たち人間は哀れな
存在なのでしょうか?

 

 

 

それを決めるのは
今思い浮かぶ利害や、価値観、欲求、
こうあるべきといった正義を超えた
宇宙意識、または点在することで意味を
成す存在意義なのかもしれません。

 

 

 

それは、他者の介在の余地が
ない領域と言えるかもしれませんね。

 

 

 

 

全ては自分の意思次第…
それでいて全体と繋がっている。
高くそびえ立つことで存在意義を持つ…

 

 

 

仮にそんな世界があるとすれば、
個体として存在しているだけで私たちは
価値を持っているのだと思います。

 

 

 

もちろん目下、目の前の視座になれば
そのままの自分でいて良いという余裕は
なく、1ミリでも優れるように成長が
求められる葛藤のさなかに在ることが
多いでしょう。

 

 

 

年齢や生育環境によって、または時と場合に
よってどこに重きを置く営みかが変わって
きそうですが、大方、あなたを司る無意識が
自身の意思とは裏腹にあなたを最善の道、
言動に導いているものです。

 

 

 

あなたな今、どんな階層の大気圏に包まれた
環境下で、栄光の道を突き進んでいますか?

 

 

 

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お待ちしています。

 

 

 

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