死という追っ手

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

お盆の時期です。
死者が一時的に帰ってくるのを
迎える行事が各所で行われています。

 

 

 

さて、今日は「死」についてです。

 

 

 

私たちは、日々生きている
=死に近づいていってるわけですが、
無意識の中では、最も恐れる存在
あるようです。

 

 

 

恐怖として主に心理的に代表されるのは
・見捨てられ恐怖(自身の存在に関わる)
ですね。

 

 

 

 

基本的には、この階層の恐怖の大気圏内で
私たちは日々営んでおり、大抵はその
大気圏(恐怖)に近づかないように
目配り・気配りをして生きています。

 

 

 

ですが、これとは違った
より差し迫った恐怖も中には存在します。

 

 

 

その1つが、
死ぬ恐怖ですね。

 

 

殺されてしまう恐怖
襲われる恐怖
病魔が迫り来る恐怖

 

 

などです。

 

 

 

 

誰しも、死は怖いものであり、
なるべくなら考えたくはないし、
または何としてでも避けたいもの
でもあります。

 

 

 

しかし、何人でも避けられないからこそ
主なテーマとして各所に挙げられています。

 

 

 

ハリーポッターの最終章なんかでも
死を制することがテーマの1つ
として展開していましたね。

 

 

 

確かにここを乗り越えてしまえば、
私たちは人生もっと気楽に生きていける
気がしますが、そんなことは可能でしょうか。

 

 

 

答えは、「可能」なのかもしれません。。

 

 

 

しかし可能というよりも、
勿論死にたくはないが、そうなっても
大丈夫な心構えや、それに立ち向かえる体験
を実態として持っている/対処(覚悟)できる
というのがより正しいのかもしれません。

 

 

 

 

しかし、そもそもそういう思考自体「死」が
私たちにとってネガティブなものであり、
どこか「追いかけてくるようなもの」という
意味を私側で持っているからのような気が
します。

 

 

 

だからこそ乗り越えたがるのでしょう。

 

 

 

でもそれはいささか「力技」
ある感が否めません。

 

 

 

 

やはり根底にある「恐怖」という感情機序
が死に対するネガティブな意味合いを生成し、
結果として「逃げられない迫り来るもの」
というような幻想をもたらすのだと思います。

 

 

 

更にはそれが現実化という物質界にまで
顕在化されるケースもありそうです。

 

 

 

では、死が「ない」としたらどうでしょう?

 

 

 

ここはよく宗教や死生観などでも
考えが分かれるところです。

 

 

 

生まれ変わりがあるとかないとか、
魂は消えるか永生されるとかですね。

 

 

 

 

生きている間はその考え方、哲学次第で
その人の心理的世界に多大な影響を
もたらすことが容易に想像できます。

 

 

 

または今は少ないですが、文化として
死んだ後もずっと「洗骨」という習わしで
永久にお世話され続ける地域では、
「死」に対する恐怖も幾分か小さく
なりそうな気がしてきます。

 

 

 

死という避けられない現実…

 

 

 

それに折り合いをつけれるまでは、
何かにしがみつこうとしたり、悪あがいたり、
何とか乗り越えてやろうと対症療法的に
抑え込もうとしたりするのは普通なこと
に感じます。

 

 

 

でもそんな力みの先に、
本当はもっと穏やかなる凪の世界
が垣間見れる気がします。

 

 

 

あなたは、忙殺される
(させられていると感じる)日々の先に
ある”永遠の世界”に耳(心)を傾ける
ことができますか?

 

 

 

あなたからのご予約、
お待ちしています。

 

 

 

ご予約はこちらから