限界を知ろうとするのは何故?

 

 

こんにちは。

 

 

 

鹿嶋です。

 

 

 

今日は誰もが考えたことのある
限界についてです。

 

 

 

スポーツや仕事などで
限界までやったのか?という言葉を
耳にしたことがあります。

 

 

 

皆さんもこれまでの人生で
そんなことを誰かに問われたことが
あるかもしれません。

 

 

 

あるいは、自分自身に問うて
日々厳しく頑張っている人
いるかもしれませんね。

 

 

 

では、
この「限界」を超えた先に待つもの…
それは何なのでしょうか?

 

 

 

何のために私たちは限界まで
頑張るのでしょうか?

 

 

 

それは、
自由や安心を得るため
です。

 

 

 

ある方が亡くなる直前に
この世で一番おいしいのは水だ
と言っていたことを覚えているのですが、
事実、本当に体が欲しているのは純然たる
水だったりしますね。

 

 

 

身体が過酷な状況下、まさに限界の状況
追い込まれるとそういった真実が
あらわになってきます。
「生命」や「生存」を基準にすると
納得しやすい事象ですね。

 

 

 

でも私たちの生活を俯瞰して考えてみると
こういった「生存」とは違う軸
日々を送っていることに気が付きます。

 

 

 

例えば、先の例でいうと私たちがジュースやコーヒー、お茶など、水以外の嗜好品を口にする機会はとても多く、水だけを飲む人はごく稀です。

 

 

 

また、着るものも華やかさをまとい、
自己表現の1つとして上から下までの
バランスを考えたコーディネートを無意識にも
日々行っています。

 

 

 

 

都心ではタワマンや、ヒルズ族などの
階層概念が存在し、競争社会を成していたり、昨今ではLGBTQなど少数派と称される人が結集して自分たちの価値観を理解してもらう運動も起こっていたりします。

 

 

 

これらは全て「生存」とは違う軸
または「生存」が満たされ、
(フラットな状況であれば難なく生きれる前提)
その延長線上にある「社会」という軸
繰り広げられる価値観装飾の部分
言えますね。

 

 

 

もし生きるので精一杯の人生を過ごしてきたと
いう人がいたら、この「社会性」の部分はどこか
自分とは遠い世界のことのように感じたり、
「自分はそれどころではない」というふうに
思って当然かもしれません。

 

 

 

でも、この「社会性」の中にいても、
「生存」を軸に生きていても、
時に壮絶な苦難があり、そこを乗り越える
プロセスには共通点があったりもします。

 

 

 

 

ある飲食店経営の社長、Aさん。

 

 

 

Aさんは8名ほどの社員を抱える
寿司屋の経営を行っています。

 

 

 

駅からも近く、人が多く賑わう好立地なこと
もあってか、突如そのすぐ50メートル先に
大手寿司チェーン店ができました。

 

 

 

大手寿司の安さゆえにAさんの寿司屋の
お客さんは大手寿司チェーン店に流れて
しまい、経営難に陥ってしまいます。

 

 

 

毎月の従業員の給与の支払いもある…

 

 

 

これまで代々繋いできた
この店を潰したくない…

 

 

 

でも現実はどんどん
売り上げが
下がる一方

 

 

 

 

そんな突然降ってきた逆境と戦いながら
死にもの狂いで何とかお客さんを増やす
施策を考え、
「時代に左右されない普遍性の高い」
新たなスキームを作って
経営難を乗り越えていくのです。

 

 

 

Aさんにとってこの逆境
自分だけでなく他の従業員も含めた
命がけの危機でした。

 

 

 

でも、それを試行錯誤して
限界まで頑張ることで、
他のチェーン店が来ても潰れない
より大きな「安心」を勝ち取ること
できたのです。

 

 

 

続く別の女性Bさん。

 

 

 

生まれてからろくな世話をされずに
育った認識のある彼女は、
ネグレクトや時に寝ている布団の上から
叩かれるなどの虐待経験を持つ人でした。

 

 

 

彼女は人間関係でもいつも
「危ない」人と付き合いがあったり、
付き合う彼氏を替えても替えてもDVに遭ったり
何もない平凡な生活が肌に合わないのか
自ら危険行為を行ってしまったり
していました。

 

 

 

 

そんなBさんはある日、命の危険を
感じるような体験をし、それを機に
危険な行為をする日々から退いたのです。

 

 

 

それは何故でしょうか?

 

 

 

それは底を知ったからです。

 

 

 

彼女にとって、この世の最小単位である
「家族」からいつ殴られるか分からない
恐怖を、交友関係の中でも感じていました。

 

 

 

彼女にとって日々危険を感じることは
例えそれが快適ではなかったとしても
「これ以上の危険を感じなくてよい」
仮置きの安心だったのでしょう。

 

 

 

でも、私たち人間はどうあがいても
心から「安心」して生きたい生き物です。

 

 

 

危険な状況がニュートラルという人でも
それがずっと続いていては
精根尽き果ててしまいます。

 

 

 

「もうこれ以上の危険はない」と
心の底から納得した瞬間から
Bさんは危険を必要としなくなったのです。

 

 

 

 

全く異なる生き方をしながら
「危機的状況」を脱したAさんとBさん。

 

 

 

「生存」を軸として底を知ったBさんと、
「社会」を軸として底を知ったAさん。

 

 

 

両者とも、
底を知ることでそれを乗り越えた瞬間
から
「安心」した平凡な日々を送ること
ができています。

 

 

 

何故ならいつもの日々は
底ではないと知って
いるから。

 

 

 

そう、安心とは「知る」こと
なのですね。

 

 

 

限界に立ち向かい、葛藤する日々…

 

 

 

場合によっては
長い年月ずっとそう生きてきた
自分にとってはそれが当たり前だった
という方もいるでしょう。

 

 

 

でも、それは納得のいく限界/底を
知ることで「安心」を得るため
なのかもしれません。

 

 

 

あなたでしか納得できないその
境地を日々探し求めて…

 

 

 

 

そしてそこまでの壮絶さはなくとも
日々闘って生きる私たちもまた、
更なる心の安定、広がりを求めて
いるのかもしれませんね。

 

 

 

生涯をかけた自分自身が納得できる
境地は一体どこにあるのでしょうか?

 

 

 

らせん階段のように続く道のりに
終わりは来るのでしょうか?

 

 

 

私たちに本能として備わる
「安心」に紐づいた知的好奇心
あなたをどこまでも広い世界へと
いざないます。

 

 

 

「生きる」という実践を通して。

 

 

 

あなたからのご予約、
お待ちしています。

 

 

 

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