こんにちは。
鹿嶋です。
スマートフォンが普及し出して早10年。
あらゆる情報が簡単に素早く手に入る
ようになりましたね。
知識は常に私たちを進化させてくれます。
でも、その知識は一体どこまで
「真実」なのか…
今日はそんな話をしていきたいと思います。
・うわさ話、ゴシップネタ
・学校で学んだこと
・政治的思想などの解釈
・食品の成分
恐らく、正解があるもの/ないものから
人によって意見が分かれるものまで
正しさは様々ですね。
しかし、究極に突き詰めて考えれば
どれも正しいとは言えなくなります。
それは何故か?
例えば1時間前に食べた
イチゴがあるとします。
そのイチゴは本当にイチゴと
言えるでしょうか?
すでに食べてしまい、消化されているので
食べる前のイチゴと体内に入ってしまった
今では成分が全然違っています。
さらに食べる前のイチゴですら
それは本当にイチゴと言えるのか
証明するのは難しいですよね。
また、何をもってイチゴとするのか。
学者がそう定義し、名付けたからか。
はたまたそのイチゴは
50年前同じ場所で取れたイチゴと
成分が全く同じでないわけで…
5,000年前に同じような植物に
イチゴという名前は付いていたのか…
考え出すと「構造」そのものが
壊れてしまうような感覚に陥って
きそうです。
そう、突き詰めれば全ての物事は
「仮置き」であって、
「それ」と私たちが指すもの/概念は
本当は存在しないことになります。
でも、それだと生きるのに困って
しまうので、一応私たちはそれを
「イチゴ」とするようにして生きて
いますね。
そう、つまり「信じている」わけです。
さらにその「信」を共有しています。
関連させてみると、自分の存在に
ついても同じことが言えます。
絶対的な自分など存在せず、
それでも他者と繋がることで
私たちは「今の」自分自身が
こうであると自分の存在を
確認または信じようとします。
「自分の周りには自分と似たような
人間しか寄ってこない」と言われたり
しますが、そう言われるゆえんは
そこにありそうです。
そしてそのことはさらに
「きっとこうであるはず」といった
幻想(ファンタジー)をも取り巻く
形になります。
・相手からこう言われたから
きっと自分はこうなんだ(こうに違いない)
・だから自分はきっとこうなれるはず
・いや、自分はそうはなれないのだ
といった幻想が無意識にも
セットになっているものです。
つまり、
知=信(+幻想)
の構図ですね。
私たちがこの世に生を
受けて「知」が増えるごとに信じることや
希望・幻想が増え、「世界」が広がって
いきます。
さらに関わる人を増やすことで、
その他者の存在の中に自分の「存在」を
確認することができ、その「世界」を拡大
していくのです。
そう考えると、小さい頃からの教育プログラム
を卒業して大人になった私たちは、
どんな人や環境に囲まれた「自分」であるか
を創っていく楽しさ・充足感を持つことが
できますね。
最終的にはそれが自分の「生きた証」
となるのですから、他者を蔑ろに扱う
ことは自分にとってもよろしくは
なさそうです。
自分が認知する/信じる世界の中で
最も重要な割合を占める「人」が
心地よくあってくれれば、
自分はそんな人たちに囲まれた存在だった
なとポジティブに自身を顧みることが
できるのですから。
あなたからのご予約、
お待ちしています。